信治郎はウィスキー造りにかかる費用の目算をしてみた。出てきた数字を見て大きくため息をついたが、すぐに思い直した。
「まだ何ひとつしてへんうちからタメ息なんぞ零(こぼ)してからに、福がにげてまうで」
後にも先にも信治郎が何度もため息を零したのはあの時だけだった、と後年クニが述懐している。
商品ができるまで5年、10年という時間を要するウイスキー作りを成功させるきっかけが、信治郎にはまだ見えていなかった。
信治郎は夜中に家を抜け出し、築港工場のある桟橋で自分の手を見つめた。「同じ人間の手や。わてのこの手でもでけるはずや・・・」
夜明けに店に戻ると、ロンドンから電報が入っていた。技師として招こうとしていたムーア博士の伝言を伝える、三井物産の中村副支店長からだった。
今、日本人でウイスキー造りを学んだ人物が帰国しているはずだ。彼に委せればさまざまな経費を節約できるはずだ、とあった。
竹鶴政孝、というその人物の名前には記憶があった。摂津醸造の社員で、ウイスキー造りの留学を終えての帰国だと記してあった。